明神峠から、水ノ木幹線林道をくだった二ノ沢と三ノ沢の合流地点には謎の遺構があり、以前このブログでも記事にしたことがあった。そのときは思い込みから、ここを「二ノ沢休泊所」と決めつけてしまったが、御料地見廻り役人の宿泊所にしては造りが不自然で、もしかすると誤った情報を発してしまったのではないかとずっと気になっていた。わずかな情報を頼りに、二ノ沢周辺の遺構を探索してみることにした。
まずは、古い地形図に何らかのヒントがないか調べてみると、昭和4年測量昭和46年改測の国土地理院地形図には二ノ沢周辺に“建物マーク”がいくつか記載されている.。しかし、二ノ沢と三ノ沢の合流点には何の記載もない。

二ノ沢休泊所や周辺の建物に関する記述はないか…
探してみると、昭和16年発刊、坂本光雄「丹澤の谷歩き」の“土澤”の項に、休泊所のことが少し書いてあった。
その一節を抜粋したのが下の文である。
軈て(やがて)右手に火モシ峠から切通峠へ抜ける林道を分岐して、三の澤を渉ると澤はこの澤と一の澤に分れる。徑路は本流の一の澤と分かれて、この澤の水系沿ひとなり次第に登りとなる。暫くしてこの澤と離れて、左へ鉄砲木ノ頭から流出された出鼻に登ると二の澤休泊所の前に出る。寂然とした境地に建てられた立派な小屋である。造林小屋からダラダラと降りると、そこは一の澤で、それからズナ澤の頭の上端を横切って辿り着いた処が明神峠である。
これが何年に歩いたことを書いた記録なのかは分からない。
しかし、世附川の広河原より、土沢沿いの径路を歩いて、明神峠に抜けていることから
水ノ木幹線林道が明神峠につながる以前ではないかと思われる。
下図は同じ「丹澤の谷歩き」に掲載されていた“世附川上流略図”の一部を切取り掲載したもの、
赤丸で囲った”家”マークがおそらく二ノ沢休泊所で、一ノ沢と二ノ沢の中間にあったことが分かる。

昭和6年大日本帝國陸地測量部の地図は、まだ明神峠から北へ続く径路が、現在の水ノ木幹線林道につながっておらず、土沢沿いの径路がしっかり描かれている。当時はおそらくこちらのルートがメインだったのだろう。
上記の概略図ともリンクする。

もうひとつ、ちょっとだけ二ノ沢休泊所がでてくる文章を見つけた。
下記の文は、昭和16年、ハイキング・ペンクラブ「丹澤山塊」“土澤”の項からの抜粋である。
一ノ澤二ノ澤と下ると澤沿ひに傾斜も緩んで二ノ澤休泊所前に出る。こゝへは三國峠より直接下る徑も來ている。この文章からも、先の概略図にある“家”マークが、二ノ沢休泊所の所在地であった可能性が高い。
さて、ここまでは机上の仕事、さっそく現地調査のため明神峠へと出かけた。
明神峠を起点にして水ノ木幹線林道を歩きだすと、途中の植林の中に「大昭和製紙」と書かれた立て看板があった。峰坂峠あたりには「本州製紙」の看板も立っていたことから、この山域が製紙会社と関係が深かったことが分かる。
壱之澤橋までくると、渡った左岸側の山肌はすっかり伐採され丸裸、明るく見通しのよい景色に様変わりしていた。林道が左に曲がって一ノ沢から離れていくと石積みの台地があり中央は階段になっている。今までは気にせず通りすぎていたところだが、あきらかに何かがあったところだ。階段を上がってみると、周辺の伐採作業が行われたためかネット柵が張り巡らされていて中には入れない。しかし朽ちた木の電柱や碍子が落ちていること、左手の高台に貯水漕らしきコンクリート枡があることなどから何らかの建物があったことは間違いない。


(文末図①)
さらに林道を進むと左手から水ノ木林道支線が降りてくる。短い林道でおそらく高圧線鉄塔の工事の際に利用された林道だろう。そしてその反対側をみると、主線の水ノ木幹線林道と交差するように幅広の廃道が残っている。水ノ木幹線林道の旧道ではないかと考え、たどってみたが、道は周辺を小さく周回しているだけでどこにもつながっておらず少々謎の道である。
そこからわずかに二ノ沢橋側に下った左手の植林の中には、小径があり、50mほど奥に入ったところには山ノ神の小祠があった。中の石祠の両サイドを調べてみると「大正十五年十一月立祀」「建設者 静岡懸駿東郡北郷村中日向 小野勇次郎」と刻まれていた。その山ノ神の入口付近右側は、現在植林だが、小広い台地状になっていて、裏の高みには水槽らしきものもある。よく調べてみるとコンクリートの土台や木製電柱に碍子、裸電球、日用品ではタバコのみの歯磨スモカ、森永加糖練乳、それにコカ・コーラのホームサイズボトルなどがころがっていた。ここにもかつての生活痕がみつかったが、さほど古い物でもなく、おそらく昭和の30年代から40年代頃にかけてのものだろうと思う。

(文末図②)
さらに林道を下っていくと二ノ沢橋の手前、林道と二ノ沢右岸の斜面の間には導水路のような跡がありコンクリートの構造物が残っている。沢からではなく、林道から導水路がつながっているのは解せないが、おそらく発電施設的なものがあったのではないだろうか。

二ノ沢橋を渡り、二ノ沢を少し上流に入って右岸に渡ると平坦地があり、ここにも集落らしき痕跡が残っていた。沢沿いに数段になっていることから何棟かの建物が建っていたものと思われる。竈(かまど)や五右衛門風呂などが残っていて、上流から水を引いた貯水層、さらに上流へとたどると取水枡もあった。


(文末図③)
二ノ沢休泊所の跡地であった候補地が①②③の三個所見つかった。
現地調査終了後のさらに突っ込んだ机上調査で、二ノ沢橋上流の集落跡③は、林業関係の飯場や事務所があったところだと判明した。残るは①と②である。前述の記録などから推測すると①は造林小屋で、山神祠があることなどから②が二ノ沢休泊所であった可能性が高い。しかし、①の石積みの感じが、現在も残っている世附(水ノ木)の休泊所の造りを思い起こさせ捨てがたい。まだ決めつけるのは早いような気がするので、今のところ調査途中ということで休泊所の話は一旦終えるとして、では前回、二ノ沢休泊所と誤報してしまった、二ノ沢と三ノ沢の合流地点にある遺構はいったいなんだったのかを再調査してみることにする。
この遺構、正確に言うと二ノ沢ではなく、三ノ沢出合の三ノ沢右岸に面している。トップの写真でも分かるように、要塞のような三層になった石垣に、不思議な形をした流路が連続している。どうみても役人が宿泊するのがメインの構造物とは思えない。他の休泊所の跡をみても、残っているのは礎の石積や取水のコンクリ―ト枡、あとは一升瓶があったり、欠けた茶碗があったりするぐらいで、こんなワケの分からないヘンチョコリンなものが残っているところはない。では、これはいったい何だろうか?
いろいろと、その筋の資料をさぐってみると、二ノ沢にはパルプ工場があったことが分かった。はっきりしたことは不明だが昭和10年代の短い期間にあったようで、明神峠からの道も初めはパルプ工場をつなぐトラック道であったようである。専門的なことは分からないが、落差を利用して砕いたパルプを流して溶かしていったものではないだろうか。そう考えるとこの不思議な構造物も納得できる。




(文末図④)
もちろん学術的なこだわりがあってやったことではなく、単なる自己満足で歩いた今回の探索、まだまだ不確かな部分も多く、間違っているかもしれない。でも一区切りつきスッキリした。
今後も何かの折につけ、調査を続けていくつもりである。何らかの情報をお持ちの方、ぜひともご連絡ください。

上記図の②と③は、2018年4月現在、周辺植林地の伐採作業にともない木材置き場や作業用の林道に変わってしまい、当時の痕跡、残留物はなくなってしまいました。
【2018.4.11追記】
2017.6.24(土)
この記事へのコメント
はっぴー
これこそ正に奥が深いイガイガワールドですね。
あの“謎の遺構”はパルプ工場!?
あの時には予測不可能な展開ですが、
可能性が高いですね。面白かったです。
さらなる調査の際には、ぜひ同行させてください。
イガイガ
二ノ沢休泊所も、最後は山林事務所的な使われ方だったようです。いろいろ歩いてみると、いたるところに飯場らしき跡があります。初期の林道もどうなっていたのか謎です。
まだまだ調べることはいっぱいですが、この周辺、大規模な間伐や伐採事業が進行しているので、痕跡が消されてしまうのではと心配です。
M氏
あの山神様を目にした時に最初に感じたのは
水ノ木、中ノ沢、ユーシン、大平の山神様と雰囲気が
よく似ているな・・・うまくいえませんが
同じ空気を感じました
山神様と休泊所は一体なんじゃないのかな?
是非こちらの方も深堀して調査お願いします
・・・って言うか興味がわいてきました
早速行ってみようかな!!
イガイガ
一度違う観点から調べて、いずれあらためて不明なことを合同調査で解明しましょう。
隠密文書もお見せします。
utayan
世附まちゅぴちゅと勝手に思ってましたがパルプ工場?採算取れなかったってことでしょうか?牛丼のカップでも転がってそうで対岸から眺めるばかりでした・・。お湯を張れそうなところに温泉の元でも入れてひとっプロ浴びたい場所なんですけどヒンシュクですよね・・・
イガイガ
上から順番に温泉巡りなどいかが?
うたやんなら、本当にやりそうだけど。